バード
高いところから もっと高いところを眺めてる いつまで鳥は飛び続けるのだろう なんで鳥は空を目指すんだろう 高いところから おもちゃの町を見下ろしてる 落ち着いてしまえば 空なんて飛べないのな 気の利いた言葉をさがして あかりが灯るまでここにいる なにも生まれないの こんなふうに呼吸をしても なにをやってんのかなあ 子供でも生めたら なにか埋まるのだろうか ありがとうが言えない いつまでも 不在に苦しんでいる 宇宙には様々な 星があるという 銀河があるという 見えないな 見えるのは青空だけだ 空をいく鳥たちだけだ まぶしいけれども 他にはなにもない 僕が愛した君はいない そして君が愛した僕も もうどこにも 陽は落ちた 高いところから降りよう 今日も生き延びた 地面を歩こう 町のあかりは 復興を祝う 人間は続く ありがとうが言えない 人間だから 鳥のように飛ばない
平行世界
朝焼けを背に山へ入る 近道のために藪を掴んで急登 程なく汗が吹く 切られることが無くなった 杉の木々を眺める 古い切り株は苔むして そこから新たに 更新しようとしている芽 クロツグミのやさしく 問うようなさえずり ラベンダー色の素敵な服を着て 子供たちに囲まれて暮らす 川辺を歩けば 夕焼けは明日の天気を約束し 昼間の熱を冷ますような おだやかな風が抜けていく 永遠ではないけれど 時は穏やかに 家族の声と共に 人の踏みあとと思った道は 獣道だった あの分岐でまちがえたんだろう 道に迷ったが 尾根に出れば問題はない 大きな動物がつけた傷が 広葉樹の太い幹にあった 足を進めるだけで しばらく一人の対話 汗からは寒い国の酒の匂いが かすかに立ち込める どしゃぶりの湾岸線は渋滞だ 閉じ込められた僕ら 君はラクダの話をリクエスト 僕が前にてきとうに作ったやつ 砂漠を長蛇のキャラバンはいく 一番後ろはラクダの上の ベールをまとった君と 口をとって歩く僕 昼間のように明るい月の元 僕らは空港に向かっている やがて頂が見えてくる あそこまで行く人はほぼいない そこは僕の席だ 誰も知らない僕の岩 頂上にて遥か遠方まで望む 左向こうの山に隠れた町があって さらに先は海 海の先には彫刻が施された墓 太陽は雲のベールで あやふやな光を投げる 山の色がすうっと抜けていく 僕らが見渡す世界は有限だ 僕らが見ぬことになる世界こそ無限 極寒の外の風を遮って 暖炉に唐松をくべよう 二人その前によりそう ウォッカを少しだけ どこかに君と静かに暮らす そんな世界もあるかもしれない 歩き疲れた僕を 待っていてくれる静かな闇 誰も置き去りにされない世界 どこかで鳴いてる ふくろう
P会にのせたこのバードと平行世界はほぼ同時にできた。というかそのまま同じ連続した思考の中にあった。
こういうふうに詩というか文はいつも歩きながら考えている。歩いてる時に浮かぶことだ。
僕はほぼ詩のようなものを座っていて思いつくことはないと思う。室内にいるときは、それはそれで何かをしていたり本を読んだりしてるためあまり創造的なことはない。
ただ歩いてるとき、その時間は考えることから離れることができない。歩いているときにいろいろ思いが巡り、色々なことを思いつくんだ。感情は一人歩いているときこそ自覚できる。
バードの高いところは山を思い浮かべて書いたけど、実際はビルの屋上だ。屋上っていうのは一人だと不謹慎な考えもよぎったりするのな。
だけど僕はもちろん鳥じゃないのでね、一時のような激情的な誘惑ももうない。
でも思うことはあるわけで、それは今この場にいるこの僕以外の人生。
それは誰でも多かれ少なかれ持つことのあることだと思う。そうじゃないならこの詩は失敗だ。
バードで鳥の姿を追っているとき、画詩につかったトンビかノスリかの写真を思い出した。上のやつ。
これは山に登った時に木にとまった彼を見て、カメラを向けたらこっちに向かってきてそれを撮った。巣が近くにあったのか気が立っているようで、何回か威嚇するようにこっちへ来た。
山は好きでよく登る。人の来ない山が好きだけど登山家じゃないのであまり高いのや激しいとこには行かない。ふらっといって帰ってこれるとこに登る。
平行世界はそんな山を登っているところを軸にしていろいろな場面や通れなかった分岐を思った。
バードの中の「子供でも生めたら なにか埋まるのだろうか」というのは読み直してすこし不謹慎に感じるなとも思った。でもその羨望は変えようのない気持ちなので他に置き換えられなかった。気を悪くする人がいないといいが。ほんとうに。
平行世界の流れはP会であぶくもさんが細かく分析してくれた。あぶくもさんも山に登る人のようですね。詳しいです。
朝焼けで始まった時にはもう夕焼けの家族の姿が浮かんでいて、クロツグミの声を聞きながら登る山道を思い出してたら最後はフクロウの夜になるな、と思いながら一挙に作った。画詩の時のように思いつくまま口に出してスマホにて文字にする。今回はひどい誤字だらけで、あとで見直しても自分で何を口にしたのかわからなくなって文字を改めるのがちょっと面倒だったけど。
土砂降りの渋滞の湾岸線は遠い記憶だ。彼女が東欧に帰る時の。
ラクダの話は昔のP会にのせた詩だ。しかしあそこが無くなった時にすっかり失ってしまった。僕はバックアップを取るような人ではなかったのでもうどこにもない。
その詩では彼女を空港に送ってそれが最後、帰ってこなかったとして終わったと思う。ちゃんとは覚えていないけど。
でも実際は彼女はまた成田に舞い戻った。病を抱えて。
ラベンダーも昔のP会にて消えてしまったものだ。僕はあの幸せな場面と自分の悲しみ、そしてその後のことを考えると苦しくてどうしようもなくなる。
祝福する心はほんとうだしそこにあった嫉妬やそういうものもどうしようもなくほんとうで、そんなものを出すべきじゃないという気持ちと、嫉妬を剝き出しにしたがる醜悪な欲望、それがのちのちもうどうしようもないくらいの後悔におそわれた。その後何も書かなかった。彼の死は衝撃だった。
人生は死に溢れている。当然だ。ではなにも成就できないじゃないか。自分の嫉妬が呪いだったんじゃないかとおそれた。
その気持ちにいまだ引きずられているのか、だいぶ陰鬱な雰囲気になってしまったのは否めない。もっと普遍的なものを模索したいのだけど。普遍的なことを書き表すために私的なことを使うべきだと思う。他者に読んでもらうものならば。
ただこうも思う。空虚も普遍的なものではないだろうか。人は誰もが虚無を感じず人生を過ごせない。囚われるかどうかは別として。
世界は無限だ。自分に起こったことや見てしまった悲しみ、それだけが世界じゃない。自分抱えるものなど無限のなかでは芥だ。
だからそういうものを創造してもいい。その世界を思い浮かべてもいいはずだ。無限であると思うだけで行ける道もある。
人間はビルから跳んでも、鳥のようには跳べないのだから。
コメント
[…] この平行世界のことは以前にも書いていた。やはりボケ始めたか。酒を控えよう。 […]