僕はヨルシカが好きだ。かなり。
今風のアレンジ、転調は賛否両論あるけれども、メロディライン、展開、ものすごく好きだ。
そして輪をかけて好きなのはその詞だ。
ヨルシカの曲、歌詞はユニットメンバーのn-bunaさんが作ってる。ヨルシカはバンドではなく、n-bunaさんとボーカルのsuisさんのユニットという形らしい。
好きな曲、好きな詞はいっぱいある。書き出したら終わらない。だから今回は「盗作」を聴いてみる。
アルバム「盗作」は音楽泥棒を描いたコンセプト・アルバムのようになっている。作品を盗む泥棒というコンセプトも素晴らしいが、これを美しく透明な声のsuisさんに歌わせるというのも素晴らしい。
もう素晴らしいばかりで先へ進まないか。アルバムを通して書きたくもあるのだけど、まとめあげられる気もないのでタイトル曲「盗作」にする。
この歌は音楽泥棒の告白や心象風景だ。いやこの葛藤や嫉妬、空腹感は何も作ってないようなものの僕でもわかるし、苦しくなる。
そこにある承認欲求は求めれば求めるだけ無くならないどころか余計”僕”を傷つけるだろう。
まず音楽や文学、もしかしたら絵画もそうかもしれない、は完全なる意味で「盗作」でないものなどないだろう。人類は今より3000年前に文字を残し、音楽にいたっては43000年前に作られた笛が発見されている。もちろん文明は進化した。しかし人間の喜怒哀楽、文字や音楽を生み出すベクトルにそんなに変化があるとは思えない。僕らは何万年も昔から悲しいだの楽しいだの繰り返しているんだ。
そんな観念的な話じゃなくても、例えば音楽のコード進行はもう以前聞いたことあるものだ。メロディーだってもうどこかで生み出されたものだ。いくら新しいものでもそれはざっくり言えば焼き直しだ。
小説や詩、文学もそうだろう。一人ひとりの人生があるというけれど、同じような経験は人類何万年の歴史の中ではなんどもあった話だろう。数奇な人生と謳ったってそうだろう。
身も蓋もないない言い方をすれば自分はいつか誰かの焼き直しなんだ。
完全なるオリジナルなものなどない。
この歌はそれなのに完全なるオリジナルだけが自分の証明だと囚われてしまった者の悲劇だ。そうしなければ承認されないと思ってしまった者の、いや承認されなければ存在しないも同じだと思ってしまった者の苦悩だ。
前置きはいいから話そう。
ある時、思い付いたんだ。
この歌が僕の物になれば、この穴は埋まるだろうか。
だから、僕は盗んだ
嗚呼、まだ足りない。全部足りない。
何一つも満たされない。
このまま一人じゃあ僕は生きられない。
もっと知りたい。愛を知りたい。
この心を満たすくらい美しいものを知りたい。
ふとした思い付きで音楽を盗作した。もちろんそれは盗作と言うものじゃなかったのだろう。先に書いたように、すべからく世の中の作品はもはや存在するものの引用だから。
しかし”僕”は足りなかった。それは自分が無から生み出したものじゃなかったから。自分の存在証明にならないと思ってしまったからだ。
ある時に、街を流れる歌が僕の曲だってことに気が付いた。
売れたなんて当たり前さ。
名作を盗んだものだからさぁ!
彼奴も馬鹿だ。こいつも馬鹿だ。
褒めちぎる奴等は皆馬鹿だ。
群がる烏合の衆、本当の価値なんてわからずに。
まぁ、それは僕も同じか
”僕”の意に反して曲はヒットした。しかし”僕”は浮かない、それが自分の歌じゃないと思っているからだ。
金は入る、人気も。しかし満たされることはない。
しかし本当の価値とはなんだろうか。
化けの皮なんていつか剥がれる。
見向きもされない夜が来る。
その時に見られる景色が心底楽しみで。
そうだ
何一つもなくなって、地位も愛も全部なくなって。
何もかも失った後に見える夜は本当に綺麗だろうから、本当に、本当に綺麗だろうから
僕は盗んだ
歪んだ希望は盗作が暴かれていま持ち上げられているものが全てなくなったときこそ綺麗だろうと、穴を埋めるのだろうとまた盗作をする。行きつくのは破壊衝動だ。
そしてこの歌は足りない足りないと自分を追い詰めるように進むことで終わる。追えば追うほど、壊れるしかないのに。
まだ足りない。まだ足りない。
まだ足りない。まだ足りない。
まだ足りない。僕は足りない。
ずっと足りないものがわからない。
まだ足りない。もっと知りたい。
この身体を溶かすくらい美しい夜を知りたい。
いくら食べても空腹が収まらないように、音楽を作り続ける。これは制作に憑りつかれたものの姿なのだろう。
”僕”の悲劇は足りないものがわからない、なにが綺麗なものなのかもうわからないまま追い求めていることだ。
本当に美しいものは誰が作ったかじゃなくて、何を美しいと思ったかだ。自己は他人に見つけてもらうものじゃなくて、自分が美しいと思うものに気付くことだ。
オリジナリティを求めれば求めるほど、それが美しいかどうかとは違う話になる。そして何度も書くけど真の意味でのオリジナリティなんて無い、それは人類の否定だ。
美しいと思ったものはほんとはわかるはずだ。音楽を作りたいと思わせた最初のレコードだろう。気持ちいと感じたその初期衝動。
それがなんだろうと(盗作だろうと)心が動けばそれが”価値”だ。
このアルバムのしびれるところはオープニングはベートーヴェンの引用だし、最後の曲「花に亡霊」は川端康成の『化粧の天使達』から着想を得たそう。「盗作」だ。
ここへ来る汽車の窓に、曼珠沙華が一ぱい咲いていたわ。
あら曼珠沙華をごぞんじないの? あすこのあの花よ。
葉が枯れてから、花茎が生えるのよ。
別れる男に、花の名を一つは教えておきなさい。
花は毎年必ず咲きます。<川端康成>
僕もなんか書いたり、弾いたりするとき何かを真似ているんじゃないかと振り返るときがある。でもこうも思う。その真似で今の僕が自分でしっくりするのなら、そしてそれで誰かに美しいとかおもしろいと思われるならそれが僕に記したものなのだ。
もっと言えば、詩を書かなくてもヨルシカの何曲かを口ずさめば(「花に亡霊」とか「だから僕は音楽をやめた」「ただ君に晴れ」などを)それはそれでいいのだった。
ただ破壊しつくほどの狂気に達しなければ本物はうまれないのだろうな、とも思っている。嫉妬もする。
蛇足として、何年も前に聴いた完全ノイズ音楽。不規則な偶然におこる音を聴かせるものだった。
またこの間AIが生み出したオートマタ的な曲も聴いた。
新しい音楽っていうのは、そういうことじゃないんだよなって改めて思うよ。そこに人類のエモはない。
コメント