マトリックス

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1999年アメリカ製作。

もう20年前の公開となるのか。
ウォシャウスキー姉妹が監督。ウォシャウスキー姉妹は当時、ウォシャウスキー兄弟といっていて、つまり兄弟とも性転換していつのまにか姉妹となったなかなか映画のような二人。
二人の映画ではこの『マトリックス』の前に『バウンド』というのを撮っていて、本作とはぜんぜん違うけれどギャングとレズカップルの対決が終始ハラハラさせて面白い作品だった。

この『マトリックス』はというと、まず賛否両論っていうか好き嫌いが分かれるだろうな。
で、僕はめっさ好き。マイ映画史上でも結構燦然と輝いているほど推しです。推しメン、いや推しムビですわ。

でもどんな映画も、これは音楽も絵画もそうだけど、どうしても出てから時間がたてばその後に続くものや模倣するものもあらわれる。そのうちにエポックだったものはだんだん陳腐化してしまうもんだ。遡って鑑賞されちまうからね。
後からのほうがよりわかりやすいし、なぞればいいから楽だし、しかも時代がついてくる。
でも先駆者が素晴らしいのはやはり最初にその想像力があった、ということだ。アイディアがすばらしい。

最初のモノってとっつきづらいのはしょーがないし、それこそ時代の半歩先行ってたりして概念が理解しづらいから拒否反応がでる。たいていの人間は食べず嫌いだそうだし。
この映画の公開当時の批評もわかりづらい、映像はユニークですごいがストーリーがつかみづらいというものだった。
今のようにSNSとかが”あたりまえ”のころではなかったし、仮想の現実社会っていうのが一般的ではなかった。ましてや人工知能なんて遠い未来で、AIのように身近じゃぜんぜんなかったから。

しかしウォシャウスキー兄弟、いや姉妹だ(ややこしい)は映像とアクションの娯楽性をこのわかりづらい世界観にばっちり合わせ、当時は度肝を抜いたんだ。このすばらしいアイディアのおかげで、ただの難解な映画で終わらせなかった。多くのファンを獲得した。

さすがに20年前の映画となると情報処理技術が今では比べもんにならんから、そりゃ今見ると映像ではもうびっくりしないかもしれない。
でも今だから理解できる部分も増える映画だ。ド派手だったアクション、娯楽性も素晴らしいが、今ならその仮想現実の世界に興味をより向けることができる。
20年も前に描かれた世界観、予見性は今でもすごいなぁと思うね。

今や老若男女誰もがSNS普通でしょの世の中で、ネット社会に個人情報からなにから組み込まれるのも当たり前になった。AIも身近でいつのまにかお隣さんだ。
しかも匿名性(たとえ本名を名乗っても文字情報だけでは自分に似た誰かを演じているようなものだ)により、普段は言わないだろうことを平気で言え、やらなだろうことを簡単にする時代になった。
僕らはもう誰もがバーチャルの世界に人格を持っている。違う自分をもう一つでも二つでも持つことができ、そこでなんなら仮の生活もできる。
でもそれは当然すべてリアルな自分でもあるので、つまりリアルとバーチャルの垣根なんてやはりない。それも自分、あれも自分。

当時はまだ僕の頭のなかで固まり切らない仮想世界とかネットによるワールドワイドな情報共有化というものが、この映画をみてああこういう感じかなってストンと納得できた、というか理解にいたった。
この映画は僕にまた一つ新しい概念を気づかせた。

もちろんこの映画はフィクションだ。SFだ。実際、僕のこの感覚がプログラムや夢だったりしたらえらいことだ。
しかしほんとにそうなのだろうか。僕が見ているこれはほんとに見ているものなのか。プログラムや夢じゃないって証明できる?
この映画ではあらためて現実とは?自分の感覚や認知とは?と不安を呼びさます。
哲学的ではあるのだけれど、この現実とは?認知とは?と少し掘り下げて考えてみるというのはとても有意義なことだと思う。

話はそれるが、この自分の感覚や認知、考えを疑う、という当然冷静な大人がすべきことが、最近のネット社会ではなされなくなっているなぁと感じている。あまりにもステレオタイプで深く考えない言葉が匿名の世界には多い。
芸能人が不倫すればとことん叩くし、重大事件の一報で容疑者が捕まればすぐ死刑にしろという。何も知らない関係外の人間が、一度も会ったことすらない人間を叩く。
正しい、正しくないは、もっと正確な情報を持って、まず本当にそうなのかなって考えるところから始まるはずだ。正義は深く知らず、深く考えない者には宿らない。
話それすぎた、いつもダイジョブかいな日本とか思っちゃうもんでね。

マトリックスに戻る。

機械対人間という構図は昔からあり、「ターミネーター」なんかもそうだった。産業革命の時代から人間は機械に仕事を奪われるなんてやってきたからこの対立関係は想像しやすい。戦いはエンターテイメント映画の王道だ。

『マトリックス』ではその対立関係よりもなによりも、そもそも皆が暮らすこの世界はもとより仮想世界なんだぞと、現実はしょせん脳が電気信号を翻訳したものにすぎない、そういうことになっている。もうそうなると対立だって仮想な話で、戦いだって誰とよ?ってわけがわからない。
おぉそうなのか、僕が感じているこれはプログラムであったか。なんつってプログラムじゃ困るけど、その設定がよかった。

よくさ、”もしかしたらこの世は夢の中なのかもしれない”とかちょいとイタい想像しちゃう少年ではあったんですよもともと僕は。でもこの映画を見て、”ああ僕だけじゃなかったな。みんな同じように想像してたんだな”と一安心だぜ。
そういや「のび太の夢」って都市伝説もあったもんな。ドラえもんの話はみんな事故かなんかで植物人間となったのび太の夢で最終回でそれがあかされるとか。つまりこの映画はそういうことだ。

このとっつきづらい世界観がこの映画の好き嫌いになっているのだろうけど、夢だと思えばすっと入って来るでしょ。バトルシーンなんか現実離れしてるし、夢だと気づいてしまえばあとは思い通りに・・・ならないんだよね、それも経験あるでしょ?あ、これ夢だな、と夢のなかで気づいてもじゃぁ都合のいいように話を進めようとするとうまくいかないもんだ。

なので極めなくちゃいけない。カンフーマスター。夢の中だっていうのにごくろうなこった。まぁ夢というかプログラムなんだけれど。
だからワイヤーアクションやバレットタイムによるデフォルメ利かせた動き、頭の中、つまり概念の世界の戦いを表すのによかった。ここにもアイディア満載だ。単純にアクションシーンとして楽しめた。それもこの監督のすごいところだと思う。

といってもこの映画をただスキっとするアクション映画としてはいけないし(いや別にいいけど)、ただの夢オチ映画でもない。
この映画の本質はまさに20年後の今、現実に発露している気がする。
先に書いたように僕らは今ネット社会にどっぷりと組み込まれ昔ながらの現実感はだいぶ遠くになってしまっている。ネットでは日々、あらゆることが起き、あらゆる感情を目の当たりにする。それが雨が降り続くようにひきっきりなしに僕らに降りかかってくる。しかしどこか別の世界だ。

僕たちは今自分の心にあるものが現実だと思っている。自分が考えたことだけが現実だと。その先の相手は仮想だ。相手の気持ちなどプログラムだ。だから見ず知らずの相手を誹謗中傷することもできる。
というこの映画とは離れたところに着地し今回は終わりにする。

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