命に嫌われている。/ 初音ミク

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軽々しく死にたいだとか軽々しく命を見てる僕らは命に嫌われちゃうな

ちょっと今までとは違うところから出してみようか。

僕らの時代では思いもつかなかったような、そんな歌い手がいる。
初音ミクだ。
ボーカロイド、つまり人ではない合成音声だ。サンプルシンセサイザーによる歌表現。

2007年にヤマハのボーカルサンプリング技術を女の子の声とキャラクターで「初音ミク」として世に出した。もうすっかり市民権を得て、今の10代、20代には身近なボーカルであり、オタクの世界だけのものではとっくのとうになくなっている。

かといって、古い古い僕らの世代ではなかなかいちシンガーとしてとらえてこなかったじゃないですか。コンピューターのやつですよ。人間が歌わないなんてその歌にタマシイあるんすか?

なんせ僕に至ってはシンセ自体ですらなかなかしっくりせず(もともとガレージロック世代なので)キッズのころはテクノとかクラフトワークとかEL&Pとかからはかなりの距離を置いてきたわけじゃないですか。

でもあたりまえに電子楽器は音楽シーンに浸透してしまって今や切り離せないわけで、
そ、それでもボーカルだけはって気持ちもあったわけで。この葛藤。

でも考えてみれば、シンセや打ち込みといったものとボーカロイドは相性がいいに決まっているし、時代がサイバーに向かっていくんだから、ボーカロイドは必然必達だったよな。

アニソンが一つの音楽ジャンルとなったのも大きい。アニメが大きな文化となったことで無機質なものが命をもち、さらにそこに感情移入できるのも自然の流れだ。生身じゃなくても違和感なく愛せる時代だ。今の若者はそのへんの垣根などハナからないのだから。

長々とこの楽曲以外のことに文を割いてしまった。命に嫌われているについて書こう。

この曲はこのボーカロイドによる楽曲形態にとてもマッチした曲だと思う。

まったくもって僕には遠い季節となったが、若いころに抱える葛藤や焦燥やいらだち、ある種の絶望を「命に嫌われている」からという見事な理論。見事な理論?
やもすれば厨二っぽく、青臭く、すぐに移ろって卒業してしまうような、そんな若きウェルテルの季節。
でもそれは誰もがわかるところがあるはずだ。そんな季節をすごしただろうから。
で、命に嫌われているからというのはずいぶんな逃避だ。若きウェルテルの逃避。

無機質であるボーカロイドに歌わせることで、その忘れてしまうはず、もしくは忘れてしまいたい季節の定着化に成功しているんじゃないか。わー年齢に逃避できない。ボーカロイド歳取らないから。ボーカロイド死なないから。
逆に言うと尾崎豊は歳をとるからその季節が致命傷になったんじゃないか。

と、なんだかわからないようなことを書いてるのは、やっぱりどこか気恥ずかしいからだ。

死ぬだ生きるだというのは、物心ついて一番最初にぶち当たる哲学思考なんだ。
まずなんで死んじゃうんだろ。そしてなんで生きてるんだろ。
哲学にはほかの学問と違って正しい答えがない。解がない。
しかしそれでは人間という社会性の生物には都合が悪い。答えはどれか一つにしてもらわないと。
なので大人になるにつれて、そこはいかにも答えがあるかのように振舞う。それに慣れていく。

でも現代はそんなふうに慣れることのできない大人も増えている。
社会という集団にあった方向性が「多様性」なんていうもっともらしい言葉のもとにすっかりあやふやになっているからだ。

生きるイコール正しいという解は、生産性こそが正しいとされていたからだ。
どちらを向いてよいのか定まらず決めかねている10代ならば、まだそれが正しいのかどうかわからない。だから悩む。生産性の意味なんてわからないからね。

しかし最近では生産性ってのが皆の目指すところではなくなってきた。大人ですら目指すところではなくなってきた。
どうも生産性だけじゃないみたいよって。すると皆が同じ方向をみることは困難になってくる。

就職→結婚→子育て、なんていうルートがあたりまえじゃなくなっている。
そして生産性という言葉も、あてはまらなくなれば非常に虚しい感じだ。
集団が社会の基軸だったはずなのに、いきなり個の時代・多様性の時代とされておっぽりだされる。

現代のコメンテーターはこう言う。
多様性こそ素晴らしいのだからおのおの好きなほうへ泳ぎなさい。
自己責任、もう社会になにか求めるのはまちがっています。
人とつながりたいのならSNSで。自分を認知されたいならやっぱりSNSで。認知されよ認知されよ。

なんとタフな世の中だ。

多様というのは濃縮から希釈への流れだ。
当然「生」の意味とも希釈され、「死」との境界もあやふやになる。
誰もが一度は考える己の存在理由、それを探す手がかりすらももうあやふや。現実が仮想との区別がつかなくなるならば、命とはなにか。なんだっけ。

「死にたいなんて言うなよ。」
「諦めないで生きろよ。」
という言葉の根拠をいかに示しづらいか。なぜ?に説明がつかない。根拠のないものが正しいといえるか。説得できるか。
周りが死んだら嫌だ、生きろよという根拠はそれだけしか示せないのか。

命に嫌わている
生への正当性が薄れている。
テレビやそれ以外のメディアでも簡単に死が見れる。安易にと言ってもいい。
そして同じようにすぐ「死にたい」とか「死ね」とかを耳にする。

死にたいという願望は人間以外の生きとし生けるものにはありえない。
死にたいと口にできる人間はどんな生物よりたしかに命に嫌われているな。

そういうことを命のないボーカロイドに歌われるとどきっとする。

僕らの命は嫌われている。
幸福の意味すらわからず、産まれた環境ばかり憎んで
簡単に過去ばかり呪う。
 僕らは命に嫌われている。
さよならばかりが好きすぎて本当の別れなど知らない僕らは命に嫌われている

人は幸福に縛られている。
多様性の世界になったはずなのになぜか誰もが幸福信者だ。単一宗教だ。
誰もがこんなはずじゃない、幸福にならなくちゃとあがいている。
しかし幸福とはなんなんだろうね。

人が幸福を感じるのは、つまり生を謳歌できるのは自分の存在を肯定できたときだ。
そして肯定するには他者が必要だ。
なぜなら人間はやはりどうしたって社会性をもった生き物だからだ。

そして他者と認め合うにはやはり同じ方向、同じ価値観が必要だ。多様性なんていったって根っこはそうだと思う。
僕はその同じ価値観とはやっぱり「生きていく」ということだと思っている。そこに共感を持った人と認め合いたいと願っている。

この歌の主人公も最後には気づく。「死ぬなよ」と人に言うのはエゴであるが、その君に生きていてほしいというエゴは嫌悪すべきものではなく、相手と自分にとって大事な存在理由なのだ。
生と死は近いけれど、同列ではない。誰もがいずれ死ぬ。たしかに平等だ。逆に言えば「死」には個性などない。皆同じ所へ行くのだ(天国と地獄があるのかは知らない)
誰もが同じである「死」が大切なわけがない(死に方が大切というのはそれは生の話だからだ)
多様性が大切だとするならば、やっぱりそれは「生」の中しかないんだ。
生きることが僕らの目的で多様性というのはそれを楽にする、生きやすくする一つの杖だ。生物の目的、その根本は多様ではない。

だから生に嫌われているってのは残念じゃないか。いつまでも嫌われてることはない。好かれるべき。もともと命に嫌われているなんていうのは自意識を持て余しているわけだ。そんな自意識の昂ぶりを鎮めるのは、必要性を認め合う存在をみつけるしかない。ラヴ&ピース。
それが難しいって言うんだろうけどね。好かれようぜ。

ボーカロイドの初音ミクの歌を”歌い手”という生身の人がカバーするというのも定着している。
面白いもんだ。無機質が有機なものに戻っていく。
やはり人の声はいい。と思ってしまうのはしょうがないだろ。


ちょっとキーが二人で違っているがそれがまた面白い。

ピアノの伴奏というアコースティックでスローなやつ。
とうとうすべてアナログに収れんした。
こうやって聴くとこの曲、ほんとメロディが秀逸なんだなぁ。とても和のテイストがあって、それも初音ミクにあうのだろうかな。

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