歴史が僕を問いつめる
日本の曲も紹介しないとな。名曲はもちろんいっぱいあるぞ。それこそ僕の心に残って血になり肉になっただろう音楽が。
僕がガキのころにブルーハーツが出てきてくれてよかった。1985年に彼らに出会えてよかった。
あの若かりし多感な頃だったからこそ、さらに染み込んでくるものがあった。今も残るものがあるのはあの頃に染み込んだからだ。
あのころの意味もない焦燥やなんでもない爆発物のような気持ちを、ちょっと照れながら思い出すこともある。今でもね。
ブルーハーツには数多くの名曲があるが、世代を超え普遍的でしかも後世や全世界に伝えたい曲を紹介する。
ちょうど英訳もついている。日本が誇る世界に対峙できるやつだ。
インディアンや肌の色、目の色と出てくるのでまさにアメリカの歴史を歌っているようだけど、この歌の中にある差別やそれに伴う排除ってやつはそこかしこに、僕や君の隣にある。
人はいつも自分だけを”普通”だの”みんな”だのあたかも基準はそれで決まるかのように考える。自分が属するものこそ”普通”で”みんな”で、だから”正義”なのだ。
しかし当然そんなことはないわけで、いつも自分がすべての中心でないことなんてみな知っている。みんなだから正義だって、そんなわけないじゃん。
でも自分が中心でないなんて恐ろしいし、面白くないし、損しそうだから自分以外の他者は排除の対象なのだ。正義がなんなのかなんて気づかないふりをする。
それがいじめや差別が膨らんでく過程だ。
肌の色が同じだろうが、生まれたところが同じだろうが、人間は他者を排除しようとする。心にそんなものを飼っている。利己的な表象。
いじめで子供が自殺したというニュースや、有名人がスキャンダルで匿名のコメンテーターに山のように叩かれるのを目にすると、静かに青空を見上げるしかない。
雲が浮かぶのどかな空を眺めながら人はどこまで行けば、どれだけ待てば同じバスに乗れるのだろうかと途方に暮れてしまうんだ。
ブルーハーツがNHKでやった時、抗議の電話が殺到したそうだ。
いったい何を抗議しているんだ。何に怒っているのだ。何が許せないんだ?
このYoutubeのコメントにとても的を射たものがあった。
”ロバートの秋山は障害者支援団体から「ふざけた演技をして障害者を差別するな」って言われた際に「僕は障害者なんか演じてない。そう感じたならあなたの方が差別主義者ではないですか」と返したらしい まさに「この僕の何が分かると言うんだろう」という強いメッセージですね”
この歌を聴いて脊椎反射などやめて、差別というものがどこから生まれてくるのかちゃんと考えてみるといい。ぜひ空をながめながら。
世界中でこの歌を口ずさめばいいのに。
コメント